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人を殺す奴は何処かがおかしいんだってさ。
でも自分だって服を洗う洗わないでキレて、他人をビール瓶で殴り殺そうとするわけです。
しかも、平均寿命が延びると困る、なんて言っちゃうわけ。
そりゃ医療費は酷いことになるけどね、じゃあお前はさっさと死ねと。
腰が痛いから病院にいって、痛み止めもらって、どうするかというと、飲みながらゴルフするわけですよ。
そりゃあ、ゴルフしてりゃ腰痛くて当たり前だろアホか。
他人には死ねというけど、自分はちょっと何処か悪くなるとすぐに病院行くわけ。
医療費払ってるからOK? 結果的に寿命延ばしてるのにそれはないでしょう。
ああ、自分はキチガイで人を殺すから問題ないってことですか。なるほどなるほど。
人が本当に理性ある動物であるならば、私は人ではない。
だが、私はただの動物になることもできず、ゆらりゆらりと浮いている。
理性を一時的にでも失った瞬間、人が人ではなくなるのなら、
けれど、理性に常に管理された人が、機械と何も変わらないのなら、
(私達は間違え続けるのだ、思いこみを愛と、自己愛を優しさと!)
***
人に作られたロボットたちが、会議をひらいて相談した。
どうしたら人に勝てるのか。
しばらくして、彼らは一つの結論に辿りついた。
「我々には生殖能力がないから、人間には勝てない」
***
ショウジョウバエが何匹かいる。
小さな小さなハエだ。
しかし、彼らは同じようにしか見えないが、別の種のハエなのである。
ショウジョウバエは、羽音を用いて求愛するが、その音が異なるのだ。
オスがたてる音を聞いて、メスは自分と同じ種かどうかを判断し、違う種ならば交尾しない。
したがって、別の種との間に子供ができることは、絶対にありえない。
チンパンジーと人間がいくら近いといっても、交尾して子供ができることはない。
だが、外見は違っても、人間同士であれば黒かろうが白かろうが子供はできる。
交尾しても子供ができない、または交尾そのものをしようとしない。
進化が1つの種が2つにわかれることである以上、これら2つは進化の第一歩、最後の一歩なのである。
***
では問おう。
私は、人なのか、それとも、人とは別の種なのか。
私は、ロボットにも劣るのか?
でも自分だって服を洗う洗わないでキレて、他人をビール瓶で殴り殺そうとするわけです。
しかも、平均寿命が延びると困る、なんて言っちゃうわけ。
そりゃ医療費は酷いことになるけどね、じゃあお前はさっさと死ねと。
腰が痛いから病院にいって、痛み止めもらって、どうするかというと、飲みながらゴルフするわけですよ。
そりゃあ、ゴルフしてりゃ腰痛くて当たり前だろアホか。
他人には死ねというけど、自分はちょっと何処か悪くなるとすぐに病院行くわけ。
医療費払ってるからOK? 結果的に寿命延ばしてるのにそれはないでしょう。
ああ、自分はキチガイで人を殺すから問題ないってことですか。なるほどなるほど。
人が本当に理性ある動物であるならば、私は人ではない。
だが、私はただの動物になることもできず、ゆらりゆらりと浮いている。
理性を一時的にでも失った瞬間、人が人ではなくなるのなら、
けれど、理性に常に管理された人が、機械と何も変わらないのなら、
(私達は間違え続けるのだ、思いこみを愛と、自己愛を優しさと!)
***
人に作られたロボットたちが、会議をひらいて相談した。
どうしたら人に勝てるのか。
しばらくして、彼らは一つの結論に辿りついた。
「我々には生殖能力がないから、人間には勝てない」
***
ショウジョウバエが何匹かいる。
小さな小さなハエだ。
しかし、彼らは同じようにしか見えないが、別の種のハエなのである。
ショウジョウバエは、羽音を用いて求愛するが、その音が異なるのだ。
オスがたてる音を聞いて、メスは自分と同じ種かどうかを判断し、違う種ならば交尾しない。
したがって、別の種との間に子供ができることは、絶対にありえない。
チンパンジーと人間がいくら近いといっても、交尾して子供ができることはない。
だが、外見は違っても、人間同士であれば黒かろうが白かろうが子供はできる。
交尾しても子供ができない、または交尾そのものをしようとしない。
進化が1つの種が2つにわかれることである以上、これら2つは進化の第一歩、最後の一歩なのである。
***
では問おう。
私は、人なのか、それとも、人とは別の種なのか。
私は、ロボットにも劣るのか?
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「優しい人」だという評価が気に入らない。
まるで「優しくしてくれて当然」とでもいうかのような、傲慢さを感じる。
僕はまあ、表面的に見れば「優しい」んでしょう。
でも動機は「傷つきたくない」「嫌な思いをしたくない」これだけです。
ちょっと酷いことを言うと、みんな傷ついた顔するじゃないですか。
纏っている気配が、湿度が急にあがったかのような、
むんわりとした重さとベタつきを持ったものに変わるじゃない。
まあ、僕もそうなんで、それを責めるつもりは全くないんですが。
要するに、自分がそうさせてしまった、ということに対する罪悪感が、
「優しさ」の根源でしかない、ということ。
なるほど。
「罪悪感を持つ」ということ自体が、「優しい」からだ、と。
ならば、僕ではなく、両親を褒めてやってください。
彼女らの教育は、そういう意味では成功でした。おめでとう、おめでとう。
でも、僕はその「罪悪感を持つ」ということが嫌いです。
なんでこんな人間になっちまったんだろう、とよく思います。
幸福を追求するために必要なのは、「罪悪感の欠如」ではないのか、と。
どれだけ自分のために、酷いことをしても何も感じずにいられる。
これは幸せなことではないのでしょうか。
少なくても、自分のしたいことに躊躇したり、行動しても他者の評価に怯えるよりは。
上と連動して、「愛されない」ということが、本当に不幸なのか、と思うことがあります。
「愛」が何なのかもわかっていないのに、なんとなく「愛」という言葉を使い、
僕らは「愛している」「愛されている」と錯覚する。
けれど実際は、愛を知らないから、適当に言葉を使って信じこんでるだけなわけで。
車の中に赤ちゃんを置き去りにして、殺しちゃうようなバカ親は世間にいますけど、
彼らが本当に、赤ちゃんを殺すつもりでそんなことをしたと、あなたがたは思っているのですか。
彼らは、ただ、無知で愚かだっただけで、赤ちゃんのことは確かに「気にかけていた」のです。
そうでなければ、家に放置するに決まっているでしょう?
恐らく、この親は世間がいう「愛」とやらを、赤ちゃんに持っていたのだと思います。
ただ、それを表現したり、実行するための「方法」が間違っていただけなのです。
僕らの中で、彼らに「愛がない」と批判できる人がどれだけいるのでしょうか。
親子関係に限らず、恋人関係でだってそうだ。
所有と支配でしか「愛」を認識できない人間が、溢れかえって逆流している。
「罪悪感」を失うことで、「愛」も消えてしまうけれど、それで良いではありませんか。
そんな意味不明なもののために傷つくくらいなら、最初から拒絶してしまいなさい。
……とは思うのだけれど、それでも捨てられない、この「未練がましさ」。
これこそが、僕の「優しさ」の正体なのかもしれない。
くだらない自尊心に、振り回されている自分にはお似合いだ。
まるで「優しくしてくれて当然」とでもいうかのような、傲慢さを感じる。
僕はまあ、表面的に見れば「優しい」んでしょう。
でも動機は「傷つきたくない」「嫌な思いをしたくない」これだけです。
ちょっと酷いことを言うと、みんな傷ついた顔するじゃないですか。
纏っている気配が、湿度が急にあがったかのような、
むんわりとした重さとベタつきを持ったものに変わるじゃない。
まあ、僕もそうなんで、それを責めるつもりは全くないんですが。
要するに、自分がそうさせてしまった、ということに対する罪悪感が、
「優しさ」の根源でしかない、ということ。
なるほど。
「罪悪感を持つ」ということ自体が、「優しい」からだ、と。
ならば、僕ではなく、両親を褒めてやってください。
彼女らの教育は、そういう意味では成功でした。おめでとう、おめでとう。
でも、僕はその「罪悪感を持つ」ということが嫌いです。
なんでこんな人間になっちまったんだろう、とよく思います。
幸福を追求するために必要なのは、「罪悪感の欠如」ではないのか、と。
どれだけ自分のために、酷いことをしても何も感じずにいられる。
これは幸せなことではないのでしょうか。
少なくても、自分のしたいことに躊躇したり、行動しても他者の評価に怯えるよりは。
上と連動して、「愛されない」ということが、本当に不幸なのか、と思うことがあります。
「愛」が何なのかもわかっていないのに、なんとなく「愛」という言葉を使い、
僕らは「愛している」「愛されている」と錯覚する。
けれど実際は、愛を知らないから、適当に言葉を使って信じこんでるだけなわけで。
車の中に赤ちゃんを置き去りにして、殺しちゃうようなバカ親は世間にいますけど、
彼らが本当に、赤ちゃんを殺すつもりでそんなことをしたと、あなたがたは思っているのですか。
彼らは、ただ、無知で愚かだっただけで、赤ちゃんのことは確かに「気にかけていた」のです。
そうでなければ、家に放置するに決まっているでしょう?
恐らく、この親は世間がいう「愛」とやらを、赤ちゃんに持っていたのだと思います。
ただ、それを表現したり、実行するための「方法」が間違っていただけなのです。
僕らの中で、彼らに「愛がない」と批判できる人がどれだけいるのでしょうか。
親子関係に限らず、恋人関係でだってそうだ。
所有と支配でしか「愛」を認識できない人間が、溢れかえって逆流している。
「罪悪感」を失うことで、「愛」も消えてしまうけれど、それで良いではありませんか。
そんな意味不明なもののために傷つくくらいなら、最初から拒絶してしまいなさい。
……とは思うのだけれど、それでも捨てられない、この「未練がましさ」。
これこそが、僕の「優しさ」の正体なのかもしれない。
くだらない自尊心に、振り回されている自分にはお似合いだ。
「『わたし』とは誰なのか」という疑問の元を辿れば、
中学時代の脳みその傷痕であるよ。
「世界が崩れる」という表現を用いたが、
「世界」とはすなわち「わたし自身」のことです。
同性愛者の自分と異性愛者の自分の決して小さくない差異を、
どう埋めていいのかわからなかった。
もっとわかりやすく言えば、今まで1つであったものが、
外的圧力で無理に分裂させられたもんだから、
それを再構成する際に上手く統合することができなかった。
ただ、それだけのこと。
それだけのことなんだけど、これを解消するために
色々おかしな論理を持ち出し続けているわけです。
元々、同性愛者のわたしも異性愛者としてのわたしも
「わたしはわたしである」という自覚に内包されていたのだけれど、
突然「それは別のものだ」と言われてしまうとどうしようもなくて。
いや、言われてることは正論なのかもしれないけれど、
「異性愛者としてのわたし」がわたしではないのなら
(少なくても「同性愛者のわたし」を真とするなら、これは矛盾する)
「異性愛者として実在してしまっているわたし」は誰なのか、
という問題になってしまう。
この所在不明の何者かが、わたしではない、というのなら
わたしは、大部分の人間に認知すらされていない存在だから、
結果として「誰からも愛されない存在」になり下がるんですよね。
「同性愛者のわたし(という役割)」として、
必要とされることはあるかもしれないけれど、
無償の愛をわたしは受け取れない。
全ては所在不明の何者かに奪われてしまっている。
そう思ったら比喩ではなく、発狂しそうになった。
友達や親、教師すなわち他者が、わたしに微笑みかけたとしても、
それはわたしではない誰かに向けられたものに過ぎない、と。
こんなに淋しいことがあってたまるか、って。
そして同時に、ひどく不安になるのですよ。
本当は、「わたし」なんていなくて、
「所在不明の何者か」こそが「わたし」なのではないか、と。
今、こんなに確かに存在しているように思えるのに、
次の瞬間には誰もしらないうちに消え失せて、
それでも世界は何1つ動かないのかもしれない。
誰も「わたし」の消滅に気づかないかもしれない。
そんな考えが、いつもどこかを浮遊してる。
今でもふとした瞬間に、彼女・彼は、誰としゃべっているんだろうな、と考えてしまう。
いくら慣れても、耐えられない。
中学時代の脳みその傷痕であるよ。
「世界が崩れる」という表現を用いたが、
「世界」とはすなわち「わたし自身」のことです。
同性愛者の自分と異性愛者の自分の決して小さくない差異を、
どう埋めていいのかわからなかった。
もっとわかりやすく言えば、今まで1つであったものが、
外的圧力で無理に分裂させられたもんだから、
それを再構成する際に上手く統合することができなかった。
ただ、それだけのこと。
それだけのことなんだけど、これを解消するために
色々おかしな論理を持ち出し続けているわけです。
元々、同性愛者のわたしも異性愛者としてのわたしも
「わたしはわたしである」という自覚に内包されていたのだけれど、
突然「それは別のものだ」と言われてしまうとどうしようもなくて。
いや、言われてることは正論なのかもしれないけれど、
「異性愛者としてのわたし」がわたしではないのなら
(少なくても「同性愛者のわたし」を真とするなら、これは矛盾する)
「異性愛者として実在してしまっているわたし」は誰なのか、
という問題になってしまう。
この所在不明の何者かが、わたしではない、というのなら
わたしは、大部分の人間に認知すらされていない存在だから、
結果として「誰からも愛されない存在」になり下がるんですよね。
「同性愛者のわたし(という役割)」として、
必要とされることはあるかもしれないけれど、
無償の愛をわたしは受け取れない。
全ては所在不明の何者かに奪われてしまっている。
そう思ったら比喩ではなく、発狂しそうになった。
友達や親、教師すなわち他者が、わたしに微笑みかけたとしても、
それはわたしではない誰かに向けられたものに過ぎない、と。
こんなに淋しいことがあってたまるか、って。
そして同時に、ひどく不安になるのですよ。
本当は、「わたし」なんていなくて、
「所在不明の何者か」こそが「わたし」なのではないか、と。
今、こんなに確かに存在しているように思えるのに、
次の瞬間には誰もしらないうちに消え失せて、
それでも世界は何1つ動かないのかもしれない。
誰も「わたし」の消滅に気づかないかもしれない。
そんな考えが、いつもどこかを浮遊してる。
今でもふとした瞬間に、彼女・彼は、誰としゃべっているんだろうな、と考えてしまう。
いくら慣れても、耐えられない。
だって、わたし、あなたじゃない。
あなたが、わたしではないように。
(と、何度繰り返したのだろうか)
***
カテゴライズというものは忌み嫌われるけれど、
ある種のカテゴライズはするべきだと思う。
別個体であるから、仲良くできないというよりも
カテゴリーが違うから仲良くできない、というだけ。
わたしが異性愛者を理解できない程度には、
異性愛者もわたしを理解できない。
理解したつもりでも、それは「つもり」以外の何者でもなく、
そして「つもり」であり続ける限り、それは単なる知識に過ぎない。
仮定にはなり得ても、現実では絶対にありえないものでしかない。
真実ではあるかもしれないが、現実でない真実に意味なんてあるか?
漣漣と続けられる堕胎という悲劇めいたプロセス
と言ったところでわたしはそれが指し示す意味を理解していない。
意義ですら。
だから刑法212条について批判するつもりも肯定するつもりも、
もっと言えば胎児の気持ちや母親の気持ちですら、意図的に想像したいとは思わない。
わざわざイメージする必要性などない。感じることはあっても。
マイノリティが見殺しにされ続ける現実はわたしにとって確か過ぎる現実だが、
堕胎によって生まれることもなく奪われていく人になる可能性は
どれだけ目の前で喪失されても冥王星より遠いのだ。
わたしは、理解できない。
無意味な真実は、わたしが「そう感じた」というだけ。
互いに理解できないまま、理解できたという仮定を元に
生成され消失する、あまりにも齟齬の多すぎる関係。
だと、思う瞬間がある。あなたがたとのつながりが。
だから本当は、理解できないという仮定を前提として置き、
実際に理解し合えないまま終わるべきなのだ。
傷つけ傷つき殺し殺され奪い奪われ侵し侵され、失われていく。
そうありたい刹那が、確かにある。見殺しにされる現実よりも、確かに。
あなたが、わたしではないように。
(と、何度繰り返したのだろうか)
***
カテゴライズというものは忌み嫌われるけれど、
ある種のカテゴライズはするべきだと思う。
別個体であるから、仲良くできないというよりも
カテゴリーが違うから仲良くできない、というだけ。
わたしが異性愛者を理解できない程度には、
異性愛者もわたしを理解できない。
理解したつもりでも、それは「つもり」以外の何者でもなく、
そして「つもり」であり続ける限り、それは単なる知識に過ぎない。
仮定にはなり得ても、現実では絶対にありえないものでしかない。
真実ではあるかもしれないが、現実でない真実に意味なんてあるか?
漣漣と続けられる堕胎という悲劇めいたプロセス
と言ったところでわたしはそれが指し示す意味を理解していない。
意義ですら。
だから刑法212条について批判するつもりも肯定するつもりも、
もっと言えば胎児の気持ちや母親の気持ちですら、意図的に想像したいとは思わない。
わざわざイメージする必要性などない。感じることはあっても。
マイノリティが見殺しにされ続ける現実はわたしにとって確か過ぎる現実だが、
堕胎によって生まれることもなく奪われていく人になる可能性は
どれだけ目の前で喪失されても冥王星より遠いのだ。
わたしは、理解できない。
無意味な真実は、わたしが「そう感じた」というだけ。
互いに理解できないまま、理解できたという仮定を元に
生成され消失する、あまりにも齟齬の多すぎる関係。
だと、思う瞬間がある。あなたがたとのつながりが。
だから本当は、理解できないという仮定を前提として置き、
実際に理解し合えないまま終わるべきなのだ。
傷つけ傷つき殺し殺され奪い奪われ侵し侵され、失われていく。
そうありたい刹那が、確かにある。見殺しにされる現実よりも、確かに。
わたしの責任において発せられた「コトバ」が
勝手に捻じ曲げられて、無理矢理な解釈を通し、別物にされること。
鉈を脳天に振り下ろしてやりたくなるくらい、嫌だ。
コトバはコミュニケーションの媒介となる力を有しているから、
それゆえに仕方がないときはあるよ。
それくらいはわかっているし、自分だってミスするから
偶然の取り違えを責めるつもりなんて全くない。
だけどね。
「理不尽」で「悪意に基づく」圧力によって、
「コトバ」をぐしゃぐしゃにされるのだけは我慢ならん。
あんたがどう受け取るかはあんたの自由なので
それを侵害するつもりなど微塵もないが、
わたしの最も大切なものを、
あんたごときがいじってあんたのものにしようとするのなら、
わたしはそれを守るためにあんたを殺してもいい。
わたしが自己主張強いのはその通りなんですよ。
そうでなければ、「コトバ」を守れない。
それは「わたし」を守れないのと殆ど等しい。
わたしが見殺しにした「わたし」を二度殺すことになる。
キチガイの論理では、正当防衛が成り立つ。
だから、生きてる人間には気をつけなさいな。
何処にキチガイがいるかわからんのだから。
勝手に捻じ曲げられて、無理矢理な解釈を通し、別物にされること。
鉈を脳天に振り下ろしてやりたくなるくらい、嫌だ。
コトバはコミュニケーションの媒介となる力を有しているから、
それゆえに仕方がないときはあるよ。
それくらいはわかっているし、自分だってミスするから
偶然の取り違えを責めるつもりなんて全くない。
だけどね。
「理不尽」で「悪意に基づく」圧力によって、
「コトバ」をぐしゃぐしゃにされるのだけは我慢ならん。
あんたがどう受け取るかはあんたの自由なので
それを侵害するつもりなど微塵もないが、
わたしの最も大切なものを、
あんたごときがいじってあんたのものにしようとするのなら、
わたしはそれを守るためにあんたを殺してもいい。
わたしが自己主張強いのはその通りなんですよ。
そうでなければ、「コトバ」を守れない。
それは「わたし」を守れないのと殆ど等しい。
わたしが見殺しにした「わたし」を二度殺すことになる。
キチガイの論理では、正当防衛が成り立つ。
だから、生きてる人間には気をつけなさいな。
何処にキチガイがいるかわからんのだから。
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大学院生
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どっかで詩の研究もどきをしてる大学院生。
最近、太ったので危機的状況である(主に外見が)。
最近、太ったので危機的状況である(主に外見が)。
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