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自分以外が見ても意味不明であろうメモ。
・欠落について
「あるはずのものがない」ではなく、
「ないということがある」という原理的選択。
前者は自身の欠落を拒絶しているが、後者は自身の欠落を受諾している。
言い換えれば、「あるはずのものがない」という欠落の仕方が強いるものと、
「ないということがある」という欠落の仕方が強いるものは違う。
前者は、欠落を埋めるよう当事者に要求するが、
後者は、欠落を維持することを当事者に命令する。
「あるはずのものがない」と言わざるを得ない人は、
未来永劫、その対象を探さざるを得ないが、
「ないということがある」と言わざるを得ない人は、
死ぬまで一生、その対象を保持したままでいなければならない。
「ないということがある」とは、すなわち欠落の内在化である。
欠落は「わたし」の標章となり、他者と自己を分かつ境界線となる。
欠落しているからこそ「わたし」は「わたし」なのであり、
それを埋めてしまったら、「わたし」は「わたし」ではなくなる。
・欠落と自虐性
ここでいう自虐とは、自己嫌悪と無縁である。
自らを責め苛み、痛みつけることを「自虐」と呼ぶ。
欠落を内在化するということは、そのこと自体が既に自虐的である。
それは、自らが欠如していることへの肯定の意識であるから、
それを拒否した「あるはずのものがない」人間とは大きく異なる。
「あるはずのものがない」人間は自虐的ではないが、
「ないということがある」人間は自虐性を保有せざるを得ないのである。
前者は、主体となって能動的行為を通じて、問題を解決しようとしているが、
後者は、あくまで受動的な立場に立って、その問題を甘受しているだけに過ぎない。
欠落しているという状態そのものは、間違いなく非常事態である。
が、前者がそれを非日常として処理したにも関わらず、
後者がそれを日常として処理してしまっている以上、
非常事態はあくまで日常の一部として平然と居座っている。
しかし、日常化されても、非常事態は依然として非常事態のままであり、
問題の当事者を窮地に追い込むのである。
けれど、当事者は抵抗することが出来ない。
仮に抵抗したとしても、その試みは失敗することが運命づけられている。
なぜなら、問題の克服は己の否定と殆ど同義だからである。
結局、「ないということがある」という選択をした時点で、
「わたし」に出来るのは、欠落を受け入れ、その痛みに耐えることだけなのだ。
ここでわたしたちは、
「セリグマンの犬」という実験を思い出さなくてはならないだろう。
学習性無力感。人間は絶望ですら学習し、内在化してしまう。
「わたし」であるための条件が欠落であるために、
「わたし」は自らを責め苛まなければならない。
なぜなら、欠落の原因は「わたし」にあるからだ。
欠落を内在化している「わたし」に責任があるからだ。
・何を欠落したのか
「あるはずのものがない」ではなく、
「ないということがある」という原理的選択。
前者は自身の欠落を拒絶しているが、後者は自身の欠落を受諾している。
言い換えれば、「あるはずのものがない」という欠落の仕方が強いるものと、
「ないということがある」という欠落の仕方が強いるものは違う。
前者は、欠落を埋めるよう当事者に要求するが、
後者は、欠落を維持することを当事者に命令する。
「あるはずのものがない」と言わざるを得ない人は、
未来永劫、その対象を探さざるを得ないが、
「ないということがある」と言わざるを得ない人は、
死ぬまで一生、その対象を保持したままでいなければならない。
「ないということがある」とは、すなわち欠落の内在化である。
欠落は「わたし」の標章となり、他者と自己を分かつ境界線となる。
欠落しているからこそ「わたし」は「わたし」なのであり、
それを埋めてしまったら、「わたし」は「わたし」ではなくなる。
・欠落と自虐性
ここでいう自虐とは、自己嫌悪と無縁である。
自らを責め苛み、痛みつけることを「自虐」と呼ぶ。
欠落を内在化するということは、そのこと自体が既に自虐的である。
それは、自らが欠如していることへの肯定の意識であるから、
それを拒否した「あるはずのものがない」人間とは大きく異なる。
「あるはずのものがない」人間は自虐的ではないが、
「ないということがある」人間は自虐性を保有せざるを得ないのである。
前者は、主体となって能動的行為を通じて、問題を解決しようとしているが、
後者は、あくまで受動的な立場に立って、その問題を甘受しているだけに過ぎない。
欠落しているという状態そのものは、間違いなく非常事態である。
が、前者がそれを非日常として処理したにも関わらず、
後者がそれを日常として処理してしまっている以上、
非常事態はあくまで日常の一部として平然と居座っている。
しかし、日常化されても、非常事態は依然として非常事態のままであり、
問題の当事者を窮地に追い込むのである。
けれど、当事者は抵抗することが出来ない。
仮に抵抗したとしても、その試みは失敗することが運命づけられている。
なぜなら、問題の克服は己の否定と殆ど同義だからである。
結局、「ないということがある」という選択をした時点で、
「わたし」に出来るのは、欠落を受け入れ、その痛みに耐えることだけなのだ。
ここでわたしたちは、
「セリグマンの犬」という実験を思い出さなくてはならないだろう。
学習性無力感。人間は絶望ですら学習し、内在化してしまう。
「わたし」であるための条件が欠落であるために、
「わたし」は自らを責め苛まなければならない。
なぜなら、欠落の原因は「わたし」にあるからだ。
欠落を内在化している「わたし」に責任があるからだ。
・何を欠落したのか
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どっかで詩の研究もどきをしてる大学院生。
最近、太ったので危機的状況である(主に外見が)。
最近、太ったので危機的状況である(主に外見が)。
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