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フェミニズム的な問題に触れるなら、
マゾヒズムにも触れないとダメな気がするっていうか
ボーヴォワールも松浦理英子も書いてるんだが面倒くさい。
下ネタばかりの自分が真面目に話すのも滑稽な気がするが、
SM関係において、Mの受動性というのは主体性に基づくものである、
という指摘はよくなされる。
マゾヒストは「主体的に」自身を受け身の立場に置く。
一見、サディストが自分に都合が良いようにマゾヒストを嬲っているようだが、
実際はマゾヒストからサディストはその権利を借り受けているに過ぎず、
マゾヒスト側は気に入らなければサディスト側からその権利を一瞬で取り返せる。
つまり、SM関係において主導権を握っているのはマゾヒストである。
サディストにハゲが多いのは気苦労が絶えないからだというネタがあるが、
要するにそういうことである。
マゾヒズムがナルシストに結びつくかどうかは、
どっかで読んだ気がするが忘れた。
マゾヒズムが時としてサディズムの気色が現れるのは、
マゾヒズムが内包する主体性の所為だと思うが勉強してないからわからない。
その点において、女性差別だのなんだのとマゾヒズムを結びつけるのは
色々おかしい。
なんせ、女側がマゾヒスト同様、一瞬で権利を取り戻し主体に成りえるなら、
ボーヴォワールはあんなクソ長い評論を書いたりはしないし、
それがフェミニズム運動のバイブルにはならない。
さらに言うと、こんなに長い間フェミニズム運動なんて続かないし、
そもそもフェミニズムというものそのものが生まれることもなかったはずだ。
蛇足だが、松浦理英子が『ナチュラルウーマン』において
女同士のSM関係を描いたのは、たぶんそのためなんだろうな、と思ったり。
女が女としてのアイデンティティの確立の物語として読むのであれば、ね。
要するに受動性を排するのでもなく、それでいて能動性を獲得するということ。
しかし、恋愛の問題とはその上でどうしようもないほどでかい障害だよなぁ。
松浦理英子は本当によく戦っている作家の一人である。尊敬するわ。
でも個人的には肥満恐怖症が一番好き。
ちなみにサディストにゴミクズが多いように感じるのは、
サディストを免罪符にしているだけの暴力男や暴力女がいるからであって、
サディストがゴミクズなのではないと思う。
マゾヒズムにも触れないとダメな気がするっていうか
ボーヴォワールも松浦理英子も書いてるんだが面倒くさい。
下ネタばかりの自分が真面目に話すのも滑稽な気がするが、
SM関係において、Mの受動性というのは主体性に基づくものである、
という指摘はよくなされる。
マゾヒストは「主体的に」自身を受け身の立場に置く。
一見、サディストが自分に都合が良いようにマゾヒストを嬲っているようだが、
実際はマゾヒストからサディストはその権利を借り受けているに過ぎず、
マゾヒスト側は気に入らなければサディスト側からその権利を一瞬で取り返せる。
つまり、SM関係において主導権を握っているのはマゾヒストである。
サディストにハゲが多いのは気苦労が絶えないからだというネタがあるが、
要するにそういうことである。
マゾヒズムがナルシストに結びつくかどうかは、
どっかで読んだ気がするが忘れた。
マゾヒズムが時としてサディズムの気色が現れるのは、
マゾヒズムが内包する主体性の所為だと思うが勉強してないからわからない。
その点において、女性差別だのなんだのとマゾヒズムを結びつけるのは
色々おかしい。
なんせ、女側がマゾヒスト同様、一瞬で権利を取り戻し主体に成りえるなら、
ボーヴォワールはあんなクソ長い評論を書いたりはしないし、
それがフェミニズム運動のバイブルにはならない。
さらに言うと、こんなに長い間フェミニズム運動なんて続かないし、
そもそもフェミニズムというものそのものが生まれることもなかったはずだ。
蛇足だが、松浦理英子が『ナチュラルウーマン』において
女同士のSM関係を描いたのは、たぶんそのためなんだろうな、と思ったり。
女が女としてのアイデンティティの確立の物語として読むのであれば、ね。
要するに受動性を排するのでもなく、それでいて能動性を獲得するということ。
しかし、恋愛の問題とはその上でどうしようもないほどでかい障害だよなぁ。
松浦理英子は本当によく戦っている作家の一人である。尊敬するわ。
でも個人的には肥満恐怖症が一番好き。
ちなみにサディストにゴミクズが多いように感じるのは、
サディストを免罪符にしているだけの暴力男や暴力女がいるからであって、
サディストがゴミクズなのではないと思う。
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荒れそうだけどメモ程度に。
フェミニズムそのものを真面目にやり始めると、
いくら時間があっても足りないので、
適当にネットで調べたことを交えつつ適当に書いてみる。
現状の、「いわゆるフェミニズム」というのは、
男女同権、すなわち男という性別に由来する権利の否定、
もしくは女をそれと同等までに押し上げる運動なんだろう。
つまり、男と女を対の関係として捉えた上での運動である。
「女は女に生まれるのではない。女になるのだ」というのは、
ボーヴォワールの『第二の性』におけるもっとも有名な言葉だろう。
『第二の性』はフェミニズムのバイブル的役割を今日でも果たしているが、
この著書の中でも、男女は対関係の中で描かれる。
というか、むしろこの本が対関係で描いているからこそ、
現状のフェミニズムを対関係で捉えるのだろう、と思う(予想に過ぎないが)。
現状のフェミニズムの限界は、
まさしく対関係でジェンダーを捉えることそのものに依存する。
なぜなら、男の権利を否定しようが、
女を男と同等にまでその権利を押し上げようが、
そこにあるのは、「男を基準として」の世界に「女があわせる」ことであって、
それ以上でもそれ以下でもないからだ。
女による女としての自己同一性なるものの確立が不在なのである。
それは単なる女性の男性化に過ぎず、根本的な問題を解決していない。
根本的な問題とはつまり、
女が女になるのではなく生まれるにはどうすれば良いのかという問題である。
この問題は、現在でも未だに続く、果てしない問題だ。
***
蛇足。
男というジェンダーは「自然」ではない。
男が持つ男であることの優越性――男根に根ざしている――は、
女が持つ女であることの劣等感と表裏一体であり、作られたものである。
それは男は常に能動的であり主体的であれという要求であるから、
女は受動的であり従属性を身につけよと要求することと、大差がないだろう。
主体であることは常に責任が付き纏うということであるから、
時としてそれは重い。
故にそれを嫌う男は現代社会に既に出現している。
そしてこの対関係でのジェンダーの把握こそが、
無用な対立と反感を成立させる原因でもある。
確かにフェミニズムは女の地位を飛躍的に上昇させた。
その点は間違いなく、フェミニストの活躍であり、業績である。
しかし、そこから生まれた新たな問題と、
既存の根本問題に対応するには心元ない、というのが個人的な感想。
フェミニズムそのものを真面目にやり始めると、
いくら時間があっても足りないので、
適当にネットで調べたことを交えつつ適当に書いてみる。
現状の、「いわゆるフェミニズム」というのは、
男女同権、すなわち男という性別に由来する権利の否定、
もしくは女をそれと同等までに押し上げる運動なんだろう。
つまり、男と女を対の関係として捉えた上での運動である。
「女は女に生まれるのではない。女になるのだ」というのは、
ボーヴォワールの『第二の性』におけるもっとも有名な言葉だろう。
『第二の性』はフェミニズムのバイブル的役割を今日でも果たしているが、
この著書の中でも、男女は対関係の中で描かれる。
というか、むしろこの本が対関係で描いているからこそ、
現状のフェミニズムを対関係で捉えるのだろう、と思う(予想に過ぎないが)。
現状のフェミニズムの限界は、
まさしく対関係でジェンダーを捉えることそのものに依存する。
なぜなら、男の権利を否定しようが、
女を男と同等にまでその権利を押し上げようが、
そこにあるのは、「男を基準として」の世界に「女があわせる」ことであって、
それ以上でもそれ以下でもないからだ。
女による女としての自己同一性なるものの確立が不在なのである。
それは単なる女性の男性化に過ぎず、根本的な問題を解決していない。
根本的な問題とはつまり、
女が女になるのではなく生まれるにはどうすれば良いのかという問題である。
この問題は、現在でも未だに続く、果てしない問題だ。
***
蛇足。
男というジェンダーは「自然」ではない。
男が持つ男であることの優越性――男根に根ざしている――は、
女が持つ女であることの劣等感と表裏一体であり、作られたものである。
それは男は常に能動的であり主体的であれという要求であるから、
女は受動的であり従属性を身につけよと要求することと、大差がないだろう。
主体であることは常に責任が付き纏うということであるから、
時としてそれは重い。
故にそれを嫌う男は現代社会に既に出現している。
そしてこの対関係でのジェンダーの把握こそが、
無用な対立と反感を成立させる原因でもある。
確かにフェミニズムは女の地位を飛躍的に上昇させた。
その点は間違いなく、フェミニストの活躍であり、業績である。
しかし、そこから生まれた新たな問題と、
既存の根本問題に対応するには心元ない、というのが個人的な感想。
ちょろっとプロットの話が出たのでそれでも。
小説を書く上で、その方法なんていうのは腐るほどある。
何も考えずに書き始める奴もいれば、ちゃんと構成を考えて書く奴もいる。
でも偉大なる芥川先生が
「数学ができねー奴に小説なんて書けねーよ」
と言ったように、
ある程度の論理力、構成力が物語を作る上で必要なのは言うまでもない。
どうでもいい蛇足を付け加えると、
芥川先生の小説というのは、基本的に話の筋で魅せるタイプのものだった、
というのは誰もが知っていると思う。
羅生門にせよ、他の作品にせよ、『晩期以外の作品は』そう。
題材を余所から持ってきて、アレンジし、論理的に組みたてる。
そういうのが得意な人でした。
ただ、晩年――早すぎた晩年だったが――になって、
彼は自分に自信が持てないようになり、
自分が最も批判していた私小説の方向へ進むことになるわけです。
だから、あんまり晩年のは面白くない。
そもそも、話の筋で魅せるような作品じゃないんだけども。
蜃気楼とか、うーん、あんまりね。
話が逸れた。
で、プロットの話なんだけれど、実は自分もよく知らない。
というのも、小説を書くことがあんまりないからなんだけど、
(小説の方法論にもあんまり興味がない。知り合いにそのマニアはいるが)
それでもまあ、
「小説を書く前にはプロットを作りましょう」
ぐらいは知っているわけだ。
じゃあ、具体的にプロットってなんなんだぜ、というと
よくわかっていない。
他人のプロットを見たこともあまりないし、記憶にない。
自分の場合、とりあえずテーマを最初に設定する。
テーマは別になんでもいい。
伝えたいこととか、そんな凄そうなもんじゃなくて、
例えば、こんな場面を書いてみたいなぁ、とかそういうのを決める。
おいらの場合は、場面よりも大抵は、
現実では言いたいけど言えないことをそこに置いちゃう。
知り合いは、サロメを読んで触発されて、
美しいキスシーンを書きたいとか言って、そういう話を書いてた。
次にストーリーというか、大まかな筋を決める。
別に設定が先でも良いと思う。ここら辺は人と場合によるのでは。
どうしても設定が先にあると、それを変更するのは難しいので
(登場人物の場合、性格が矛盾してくる可能性があるため)
先に話の筋を作るほうがやりやすい人もいるだろうし、
逆に人物のリアリティを出すために、
(筋に合わせた人物制作は、作者のご都合主義キャラを産みやすい)
設定を先に決める人もいるかもしれない。
で、最後に、そのテーマを支えられる設定を作る。
最後に、とは書いたけど、実際はテーマよりも先にこっちが出来る場合もある。
というか、テーマと設定がほぼイコールのことがある。
大抵の場合、小説だとか漫画は登場人物(人でないかもしれない)が
動くことによって話が進行していくので、
その登場人物が登場人物らしく行動し発言し考えなければならんわけだ。
そうしないと、その人物が場面から浮いてしまうか、
もしくは浮かないように踏ん張るあまり、
作者の意図した人格とは別の人格を持つことになる。
あとは単純に、読者から反感を買う。
「コイツ、矛盾しまくってて食えない野郎だ」と言われてしまう。
ちなみに、おいらは筋は大まかに考えただけで書き始める。
単に取りかかるの遅いので時間がないのと、
(おいらが、締め切りもないのに書くわけがないだろう)
あまりに細部まで決めると融通がきかなくなって、主人公が大変そうだから。
書いているうちに「ここはこうしないとおかしいな」くらいは感じるので、
それにあわせて適当に修正したり消したり色々。
まあ、数学の出来ないおいらがうだうだ書いても仕方のないことであった。
描写というか、コマ割というか、場面の見せ方で言えば、
芥川先生の羅生門は大変参考になると思う。
あれは芥川先生の頭の良さがよくわかる小説で、
どんだけ一つの小説を書くのに、あの人が練っていたかがわかる。
本来ならああいうレベルでプロットは作るべきなんだろうとは思うが、
面倒くさくて本編書き始める前に投げてしまいそうなのでやっていない。
川端だか三島だかも文章読本書いてるな。
読もうと思ってそのまんまだわ。
小説を書く上で、その方法なんていうのは腐るほどある。
何も考えずに書き始める奴もいれば、ちゃんと構成を考えて書く奴もいる。
でも偉大なる芥川先生が
「数学ができねー奴に小説なんて書けねーよ」
と言ったように、
ある程度の論理力、構成力が物語を作る上で必要なのは言うまでもない。
どうでもいい蛇足を付け加えると、
芥川先生の小説というのは、基本的に話の筋で魅せるタイプのものだった、
というのは誰もが知っていると思う。
羅生門にせよ、他の作品にせよ、『晩期以外の作品は』そう。
題材を余所から持ってきて、アレンジし、論理的に組みたてる。
そういうのが得意な人でした。
ただ、晩年――早すぎた晩年だったが――になって、
彼は自分に自信が持てないようになり、
自分が最も批判していた私小説の方向へ進むことになるわけです。
だから、あんまり晩年のは面白くない。
そもそも、話の筋で魅せるような作品じゃないんだけども。
蜃気楼とか、うーん、あんまりね。
話が逸れた。
で、プロットの話なんだけれど、実は自分もよく知らない。
というのも、小説を書くことがあんまりないからなんだけど、
(小説の方法論にもあんまり興味がない。知り合いにそのマニアはいるが)
それでもまあ、
「小説を書く前にはプロットを作りましょう」
ぐらいは知っているわけだ。
じゃあ、具体的にプロットってなんなんだぜ、というと
よくわかっていない。
他人のプロットを見たこともあまりないし、記憶にない。
自分の場合、とりあえずテーマを最初に設定する。
テーマは別になんでもいい。
伝えたいこととか、そんな凄そうなもんじゃなくて、
例えば、こんな場面を書いてみたいなぁ、とかそういうのを決める。
おいらの場合は、場面よりも大抵は、
現実では言いたいけど言えないことをそこに置いちゃう。
知り合いは、サロメを読んで触発されて、
美しいキスシーンを書きたいとか言って、そういう話を書いてた。
次にストーリーというか、大まかな筋を決める。
別に設定が先でも良いと思う。ここら辺は人と場合によるのでは。
どうしても設定が先にあると、それを変更するのは難しいので
(登場人物の場合、性格が矛盾してくる可能性があるため)
先に話の筋を作るほうがやりやすい人もいるだろうし、
逆に人物のリアリティを出すために、
(筋に合わせた人物制作は、作者のご都合主義キャラを産みやすい)
設定を先に決める人もいるかもしれない。
で、最後に、そのテーマを支えられる設定を作る。
最後に、とは書いたけど、実際はテーマよりも先にこっちが出来る場合もある。
というか、テーマと設定がほぼイコールのことがある。
大抵の場合、小説だとか漫画は登場人物(人でないかもしれない)が
動くことによって話が進行していくので、
その登場人物が登場人物らしく行動し発言し考えなければならんわけだ。
そうしないと、その人物が場面から浮いてしまうか、
もしくは浮かないように踏ん張るあまり、
作者の意図した人格とは別の人格を持つことになる。
あとは単純に、読者から反感を買う。
「コイツ、矛盾しまくってて食えない野郎だ」と言われてしまう。
ちなみに、おいらは筋は大まかに考えただけで書き始める。
単に取りかかるの遅いので時間がないのと、
(おいらが、締め切りもないのに書くわけがないだろう)
あまりに細部まで決めると融通がきかなくなって、主人公が大変そうだから。
書いているうちに「ここはこうしないとおかしいな」くらいは感じるので、
それにあわせて適当に修正したり消したり色々。
まあ、数学の出来ないおいらがうだうだ書いても仕方のないことであった。
描写というか、コマ割というか、場面の見せ方で言えば、
芥川先生の羅生門は大変参考になると思う。
あれは芥川先生の頭の良さがよくわかる小説で、
どんだけ一つの小説を書くのに、あの人が練っていたかがわかる。
本来ならああいうレベルでプロットは作るべきなんだろうとは思うが、
面倒くさくて本編書き始める前に投げてしまいそうなのでやっていない。
川端だか三島だかも文章読本書いてるな。
読もうと思ってそのまんまだわ。
会おうと思えばいつでも会える。
でも会わないほうが良いと信じているから会わない。
どんな顔してればいいのかもわからないし。
だから本当は、彼女は彼岸にいるわけではない。
ましてや死んでいるわけでもない。
彼女は元気にしているし、此岸のほうに存在している。
何かをしたわけじゃない。何かをされたわけでもない。何かが起きたのでもない。
だからこそ会えない。
何もなかったから、会いにいけない。
何もなかったのに途絶えたからもう会えない。
愛を理由にしなきゃセックスも出来ない、と松浦は小説だかエッセイに書いた。
理由はいつだって弱い人間にとっては、存在していなければならないんだよなぁ。
だから今は衝動が欲しい。
何も考えず、根拠も必要とせず、それでも実行に移させるだけの力。
でも会わないほうが良いと信じているから会わない。
どんな顔してればいいのかもわからないし。
だから本当は、彼女は彼岸にいるわけではない。
ましてや死んでいるわけでもない。
彼女は元気にしているし、此岸のほうに存在している。
何かをしたわけじゃない。何かをされたわけでもない。何かが起きたのでもない。
だからこそ会えない。
何もなかったから、会いにいけない。
何もなかったのに途絶えたからもう会えない。
愛を理由にしなきゃセックスも出来ない、と松浦は小説だかエッセイに書いた。
理由はいつだって弱い人間にとっては、存在していなければならないんだよなぁ。
だから今は衝動が欲しい。
何も考えず、根拠も必要とせず、それでも実行に移させるだけの力。
お袋と口喧嘩をしつつ、なぜかトイレを探している。
はじめに入ったトイレは、男性用の便器があったので、
おいらが「ここ男子トイレじゃん」といって出る。
次にまた別の場所のトイレにはいるのだが
(病院のトイレだとそのときは思った。綺麗とまではいかないけど汚くはなかった)
そこにはやはり男性用の便器が。よくわからん。
その後、用をすませたのかどうかは忘れたが、
喧嘩の相手であるお袋が、怒りながらトイレを出て行ってしまう。
残されたのは、おいらとおっちゃん二人。
一人のおっちゃんが話しかけてきて、こう言う。
「妹が死んじまってな」
それを聞いたおいらは、なんと言えばいいのからなくて、
「ご愁傷様です」
と型式的な返事をした。
おっちゃんはそれから何か言ったか、それとも言わなかったか、
記憶にはないけれどトイレを出て行った。
そして、もう一人のおっちゃんがおいらに話しかけてくる。
「なんで、最近の若いのは、そうなんだ。型式的というか……」
おっちゃんは続けて何かを話している。
「そうそう、」
おっちゃんは、色あせたジャンバー?を着ていた。
そこで目が覚めた。
***
・母
愛情や保護者をあらわしています。
個人によってその解釈は様々です。
母親が泣いていたり、小言を言うのは、多くの場合警告をあらわしています。
・老人・老婆
夢主にとってのアドバイザーをあらわしています。
彼らは夢のなかでは意味不明の行動をとります。
その行動や言動があなたにとっての忠告になります。
・説教(せっきょう)
説教もするのもされるのも、現状の関係を変えられないこと、
特定の相手に自分の意志が伝わらないことなどをあらわします。
またしつこいほど説教しているのは、
自分に自信がもてないことを映しています。
・公衆トイレ
ココロに溜まった愚痴や不満、怒り、過去のこだわりなどを
吐き出したいと思う気持の表れです。
それらはあなたに必要のないもの。
早急に消し去る必要があるようです。
ただし実際の尿意などから見る場合があり区別して解釈しましょう。
(以上、夢占い系サイトから適当に引用)
はじめに入ったトイレは、男性用の便器があったので、
おいらが「ここ男子トイレじゃん」といって出る。
次にまた別の場所のトイレにはいるのだが
(病院のトイレだとそのときは思った。綺麗とまではいかないけど汚くはなかった)
そこにはやはり男性用の便器が。よくわからん。
その後、用をすませたのかどうかは忘れたが、
喧嘩の相手であるお袋が、怒りながらトイレを出て行ってしまう。
残されたのは、おいらとおっちゃん二人。
一人のおっちゃんが話しかけてきて、こう言う。
「妹が死んじまってな」
それを聞いたおいらは、なんと言えばいいのからなくて、
「ご愁傷様です」
と型式的な返事をした。
おっちゃんはそれから何か言ったか、それとも言わなかったか、
記憶にはないけれどトイレを出て行った。
そして、もう一人のおっちゃんがおいらに話しかけてくる。
「なんで、最近の若いのは、そうなんだ。型式的というか……」
おっちゃんは続けて何かを話している。
「そうそう、」
おっちゃんは、色あせたジャンバー?を着ていた。
そこで目が覚めた。
***
・母
愛情や保護者をあらわしています。
個人によってその解釈は様々です。
母親が泣いていたり、小言を言うのは、多くの場合警告をあらわしています。
・老人・老婆
夢主にとってのアドバイザーをあらわしています。
彼らは夢のなかでは意味不明の行動をとります。
その行動や言動があなたにとっての忠告になります。
・説教(せっきょう)
説教もするのもされるのも、現状の関係を変えられないこと、
特定の相手に自分の意志が伝わらないことなどをあらわします。
またしつこいほど説教しているのは、
自分に自信がもてないことを映しています。
・公衆トイレ
ココロに溜まった愚痴や不満、怒り、過去のこだわりなどを
吐き出したいと思う気持の表れです。
それらはあなたに必要のないもの。
早急に消し去る必要があるようです。
ただし実際の尿意などから見る場合があり区別して解釈しましょう。
(以上、夢占い系サイトから適当に引用)
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最近、太ったので危機的状況である(主に外見が)。
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