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PDFが見れるならネット上で見れるのですが、
東典幸先生の「吉原幸子論 ――光る傷――」について
ちょいと思ったことでも書いてみようかと。
文章で先生とつけるのもなんか気持ち悪いから呼び捨て。
怒られたらなおすかもしれないけどたぶんなおさない。

***

吉原幸子の詩に対し、東典幸は次のように言う。

<吉原幸子の詩は、たんに傷つき、痛むのではなく、そのことによって生が輝く、という意味合いを強く持つものである。>(P23 上段8行目)

私は(持った印象を否定するつもりはないのだが)この読み方を初期の詩集にまであてはめてしまうのは、少し乱暴なのではないかと思うし、それが彼女の詩の本質だとも思わない。
このような定義は、最後の詩集である『発光』において、吉原が傷というものに対し、ポジティブな(明るい)肯定をしたからこそではないのか。「生が輝く」という発想は、最後の最後で彼女が「そうか 傷は光るのか!」という発見をしたから産まれたのではないのか。それを前提とした受け取り方を初期の詩集にまで用いるのは、因果関係の逆転ではないのか、と思う。

上手く言えないのだが、この一文に強い違和感がぬぐえないのである。
その前の文に「いわゆる吉原」の評価が書かれているが、それそのものを私が受け付けないからかもしれない。
少なくとも、吉原の詩は「生が輝く」なんて「美しい」呼び方をされるようなものではない。いや、確かに「美しい」のだが、そこにはもっと重々しく、それでいて苦いものが含まれていている。たんに「生が輝く」と一言で終わらせられるほど単純なものではないのだ(少なくともわたしの中では)。
特に、その証明として引用された「あたらしいいのちに」という詩は。

東の小論から逸れるが、少し「あたらしいいのちに」について、思うことを述べておこう。
この詩から私が感じるのは、「生が輝く」というようなことではなく、むしろ発話者が引き受けた「責任の重さ」である。
確かにこの詩では、「傷つくこと=生きること」であるという、発話者の考えが込められているのだが、それがメインなのではなく、そうだと知りながら、それでも生を引き受けてくれと、相手に生きること――傷つくこと――を耐えさせることを「覚悟すること」なのだ。

さて、東は吉原の詩をこのように定義した後、「あたらしいいのちに」という最初の詩集に収録された詩をあげて、次のように言う。

〈いかなる生も無条件に「痛い」という感覚で理解することしかできない詩人の存在を感じさせるのだ〉(P24 上段5行目)
〈精神的な痛みと肉体的な痛みが直結して表現される〉(P24 下段10行目)

この考え方を私は支持する。
吉原にとって傷というのは、世界と繋がるために必要なものの一つであって、それは次のような詩句からも読みとれるからだ。そして、それを肉体的な痛みを通じて主張するのも彼女の特徴の一つである点も明白である。

  つきたてたい 世界に すべてに
  つきたてることによって加はりたい
  吸ひ込まれたい とどかないすべてに
  つきたてることによって殺されたい

  (『昼顔』「兇器」)

  果物ナイフで猫に切りつけた
  手がすべって わたしの静脈が切れた
  たくさんの涙が そこから流れた
  なぜかあの猫 わたしにだけは
  さもやさしそうに 傷口をなめて
  あれからなついて ずっとそばにいます

  (『魚たち・犬たち・少女たち』「猫」)

しかし、吉原の詩に対し、

〈逆に、自虐的な印象さえある〉(P25 上段5行目)

というのは、違和感がある。
むしろ新川などが指摘するように、「自己劇化」していて、(いやらしさがないだけで)自虐的というよりは、ナルシズム的な要素が強いように感じる。
例えば東自身が引用した「狂」では、自分を聖母マリアと重ね合わせているという点では、自虐というよりはナルシーだし(指を削るという行為は文字通り、自分を虐げてはいるのであるが)、「馬に」の「ののしっておくれ/わたしには それがふさわしい」なんて、それこそいやらしくないだけでナルシズム的であると言えるのではないだろうか。
岡本かの子のように自己憐憫はないかもしれないが、「オンディーヌ」なんかはかなりいやらしいナルシズムを感じるし(自分をオンディーヌとハンスに重ね合わせるなんて、ナルシストじゃなきゃそもそも出来ないと思う)、ナルシズムに反するものとして自虐的というのは何か違う気がする。


面倒になったので途中で放置。

***

ついでにメモ。
なんか違和感あるんだよなー、と思ったんだけど、わかった。
相手と同一化するということについては同意しても、
それが「相互の負性という共通点による」という点と、
「全ての生き物が傷ついてるのは自明だと吉原が思っている」
で独我論に繋がるから、
そもそも吉原が独我論者であるという点を疑問視するおいらには
違和感があって当然だったらしい。

せっちゃんありがとう。


***

出典:吉原幸子論 ――光る傷――(PDF注意)
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